春によせて

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市ヶ谷

三度にわたる苦難の演習を経て,よもや侵されまいと築いた防壁の,何とあっけなく崩れ去ったことか。外交上も特にやましいことなどなく,一切の内憂外患とは無縁のつもりでいた。それなのに,今回の奇襲である。なぜなのか,思い当たる節がまったくない。天に見放されたのだろうか。しかし,我ながら初動は迅速だった。あの夜間の非常行動は正解であった。日頃から培ってきた危機察知能力,みたいなものが何かしら役立ったのだろう。ああでも待てよ,いつも無意識の内面に渦巻くそういう「驕り」を,あるいは天に見透かされて,「お前このままではダメだぞ」と灸を据えられたのだろうか。もはや,何でもいいけどね。とにかく最初の3日間こそ苦しかったが,幸いにして本土決戦は免れた。主要都市も陥落していないはずだ。この戦闘はまもなく勝利をおさめる。

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奈良井宿

2022年度の幕切れは,まさかまさか,疫病との闘いであった。桜色に染まり浮かれ果てた世間とは裏腹に,新天地でのスタートダッシュはいきなりずっこけて,しばらくは隔絶の日々が続く。そしてこの段になって初めて,筆を執った。何だろう,2年前に1週間交替の勤務と待機を命じられていた頃,過去の海外紀行の更新が妙に捗ったことをふいに思い出した。それにしても情けないなあ,前回の更新からゆうに半年が経過している。こんな機会でないと,随想をしたためることすらできないのか。昔は得意だったはずの「書く」という行為が,年を追うごとにどんどん退化しているようだ。そもそも,こんな文体だったっけ。もちろん,日々浮かんでくる想念のうち重要なものはメモ帳に書き留め,簡潔に文章化し,一般非公開のTwitter(いわゆる鍵垢)に適宜投稿している。そして「出張所」と称する別の場所は,ハードディスクに埋もれた過去の写真を掘り起こし,新たな命を吹き込む恰好の実験場となっている。だが,肝心のこの「窓辺」は一体どうなっているのだ。最初に意気込んだような「外界を覗く広い窓を手術室に開けて,本業の傍ら,新たな思考そして表現の場を切り拓かんとする挑戦の意思(初回記事)」はどこへ行ったのだ。Twitter現代社会の生活に適合した優秀な装置だが,得られる成果はあくまで即時的そして断片的なものだ。何とかしてその産物を定期的に回収し,統合していこう。

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黒川温泉

もっとも,自縄自縛というのか,自らがこの「窓辺」を堅苦しいものに仕上げてしまった感は否めない。窓の解錠操作が煩雑なのだ。あるいは,窓自体が重たいのだ。やはり「手術室」だからか。確かに,それは正しい。でも一方で,それは言い訳に過ぎない。目指しているのは,求めているのは,その重たい窓を定期的に開閉するだけの筋力,そして悠然たる外界を見渡すまでの余裕であったはずだ。だが悲しいかな,己の能力は未だそんな域には到達していなかった。これは今後努力で補っていくしかないものだ。ところが今,不覚にも「手術室」が完全な停電状態である。するとどうだろう,窓枠の外壁に這いはじめたツタの隙間から,うっすらとした自然光の木漏れ日が暗闇の室内に差し込んでいるのが見えるではないか。いよいよ内側から窓が開かなくなってしまってはどうしようもない。何にしてもそろそろ,筆を執るべき時期だったのだろうと,やっと気が付いた。さて,何の感動もなく日付だけが変わってしまったが,ある意味,節目となる年度末だったのかもしれない。社会に出て,まる7年。組織の体制上,昨年度の一年間は最繁忙の現場をつかの間だけ離れることになった。したがってある程度の時間的な自由度が生じ,自身,家族,組織,業界など色々な範囲の「身内」を冷静に客観視できたという特殊な面があった。

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Rye, East Sussex

思えばこの7年,まるで「創造」していないことに気が付く。まともなプロダクトと呼べるものがない。学生時代よりも何だか貧しくなったように思う。しかも,この2年あまりの抑圧的な社会情勢が拍車をかけた。感性は貧しくなり,精神性は低下した。単に効率的に仕事をこなしていればそれでよし,という世の中になった。本業だけで十分満足できる人びとにしてみれば,逆に幸福なことなのかもしれないが。それはともかく,この本業は元来は創造との親和性が低い領域である。むしろ決められたことを正確に遂行する能力こそ重視される。本業を通して創造を実現することは不可能ではないが,難易度が高く,それを行うにはまだ知識も経験も圧倒的に不足しているのが現状だ。ただし,執刀がさらに増えれば,見える地平もがらりと変わってくるかもしれない。そこには淡い期待を寄せている。では,創造に専念する人間としてまともにやっていけるのかといえば,否だ。端的に言って,そんな才能はない。そして皮肉な話だが,決められたことを正確に遂行することは,実はかなり性に合っている。職人的な根性に通じるものがある。創造なんて言葉を軽々しく口にするのは,実はおこがましいにも程があったのかもしれない。

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動脈瘤頸部クリッピング

ならば,せめて表現者でありたい,というのが正直なところだろうか。表現者であることをやめてしまっては,おしまいだ。昔から親しんできた写真というのは,最も手っ取り早い表現の手段である(ただし最近は機材の進歩が著しいので一概にそうも言えなくなってきているのだが,一眼やミラーレスがどうとか,話が非常に複雑になるので,まあ今は考えないことにする)。昨夏にTwitterで「出張所」を開いて以降,数多くの刺激を受けてきた。いろいろな世代が,素晴らしい写真表現を世界に発信している。自分と同世代か,あるいはさらに若い世代が多いという事実にも驚かされる。そして写真の構成,明るさ,焦点,さらにキャプションの筆致を丁寧に観察すると,「おっ」と目に留まる個人なり小集団なりが浮かび上がってくるのも興味深い。感性の共鳴,とでも言うべきか。使い古されたようなチープな言葉だが,実際のところこれが最もしっくりくる。そういえば,フォロワー数という名の数字は大して増えない。あちらの「出張所」はかなりフォーマルな,いわばよそ行きの格好で塗り固められていて,ときどき思いついたかのように英語を話す(海外への発信という試みに加え英作文の練習を兼ねている)。たぶん人間臭さや親しみやすさが今ひとつ感じられないのだろう。まあ,今後どのような「ファッション」を模索するかはともかく,日常的に表現を考える,表現に触れる機会を設けた,というのはひとつの大きな進歩であった。それは,この閉塞した日常へ向け発せられた,必然的なカウンターパンチでもあったのだ。

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特急北斗星,ソロ個室の夜

では,話が戻ってしまうが,果たして本業における表現とは何なのだろう。もしや学会発表とか論文なのだろうか。ああ,ついに出てしまったか,この俗物的な単語。まあ,強いて言うなれば表現の代替にはなりうるのだろう。そういうわけで昨年度は6件の発表,2本の論文,1本の総説を形にしてみた。もっとも,最初の5年ほどはこういう活動には微塵の興味や関心もなかった。しかし,傲慢にも程があるのだが,昔からよくある流れなのだ。つまり「できるならまあやってもいいかな」と思い,やってみたら結局できる,というこの流れ。これを繰り返せば一応の安住は可能なのだが,こんな不遜な態度では革新的なものは生まれようがない。したがって,いまだ表現にはほど遠い。でも考えてもみよう,カメラを本格的に持ち歩くようになったのは中学1年。ということは,写真歴は今年でちょうど20年目に入る。今でこそ表現が云々とか分かったような偉そうなことを口にしているが,実際のところ写真表現の面白さを理解し始めたのは,早くても5~6年目(高校生)くらいではなかったか。この本業の世界に置き換えたとき,まだ自分がせいぜいその程度のレベルにあると考えれば,発表なり論文なりがもつ表現としての魅力(今のところ字面を見るだけで背筋がうすら寒くなる)を将来的に見出す余地はあるかもしれない。

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特急あけぼの

いや,でも本当にそうだろうか。表現とは,没頭が前提になっていると思う。ああ没頭,どこへ行ってしまったのだろう。ものごとに無心で没頭するという,往時のあの煌びやかで心躍るような経験が,ちょうど第二の四半世紀に入った頃,つまり20歳代後半から急速に減少している。学生時代にこれを行っておけば良かった,という悔いのようなものはほとんどない。むしろ今は,当時没頭していたことから遠ざかり,やがてそれが出来なくなり,気がつけば目に映る景色もだんだんと色褪せてきているような気がして,虚しさを覚えている。もちろん,今でもだましだまし没頭する場面はたくさんある。でも,結局のところは高い集中力をつかの間だけ発揮しているに過ぎず,何かが本質的に違う。架空鉄道のダイヤグラムや時刻表を夢中で作る,車両形式や路線図を暗記する,地図や航空写真を画像で記憶する,はたまた無心でピアノに向き合う。そういう場面には必ず居合わせたはずの「ワクワク感」が,根本的に欠如しているのだ。最も憂うべき問題である。日頃,没頭だと錯覚していたものは,没頭ではなく,実は単なる溺水だったのだ。そんな風に溺れもがいていながら,果たしてどうやって表現ができよう。

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賽の河原

誰もが同じような悩みを抱えているのだろうか。必ずしもそうとはいえない。というのも,本業をやっていると,「人生=仕事=趣味」という驚くほど単純な図式,あるいは逆に三位一体論なみに難解な概念をしばしば観測するからだ。だが,いずれにしても理解がまったく困難である。趣味は好きだが仕事ではない。一方で,仕事は好きだが趣味にはなり得ない。まして人生ではない。哲学が根本的に異なるのだ。実際のところは,どこに出ても恥ずかしくないくらいにこの三重奏のレベルを高めることが肝要かつ現実的なのだろう。すると,全てを注ぎ込むというよりは,適切に配分する,という色が濃くなってくる。かかるアンサンブル自体が一定範囲で可能であることは,経験が概ね証明した。つまり,たとえ配分というやり方でも,一般的な基準に照らせばあまり問題のない成果が得られることを既に確認した(本当にそれで良いのかはひとまずおいておく)。そして仕事を取り去った後に残る深淵の存在を仮定するとき,やはりその価値を高めるような努力はあって然るべきだ。もちろん,単なる道楽人間になってはいけない。さて,ここでふと立ち止まる。どうだろう,没頭と疎遠になってしまった一因に,この配分という考え方があるのではないか。この数年で私的環境は激変した。もう昔とは違う。でもきっと,それは本質ではない。没頭を見失った本当の要因から目を背けているに過ぎない。あと,もうひとつ心の片隅で常に危惧すべきことがある。すなわち,各人が然るべきトリニティを体現し成熟する中,いつまでも独り善がりの理論を展開し,いつの間にか取り残されてしまわないか,ということだ。もっとも,トリニティなんて言葉,気軽に使えるほど全然理解していないのだけどね。

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聖体の論議(La disputa del sacramento)

心のどこかで,業界や同業者に対する一種の諦念が生じつつあるのだと思う。本業では特別なことをやっているという誇りはもつべきだが,別の特別なことをやっている者も大勢いる。人命と向き合う距離は確かに近いが,その近さのみが至上のものとして殊更に強調されるのは我々の未熟性の現れで,社会的なバランス感覚を欠いた結果だ。距離は遠くとも,桁違いの数の人命と向き合う務めは山ほどあるのだ。距離の厳粛な近さが矜恃の一部を成すことは否定しないし,当然ながらその自覚もあるが,なにも取り立てて神格化されるほどのことではない。いつも現場にいるというだけの理由で神聖視されるのはおかしい。どうしてこれがあまり理解されないのか。それと,心身ともに健康でいることが大変重要なのは言うまでもないが,その価値観でしかものを考えられなくなるのも,われわれ専門家にしばしば見られるおぞましい病理像のひとつである。窓の外はおろか,窓自体を見たことがないのだろうかというくらいに,社会的見識の狭さを露呈しているようで,辟易してしまう。とにかく「命」と唱えてさえいれば全てが赦されるというドグマティズムと,それに盲従する大多数の群れに,いささか疲弊してきたのかもしれない。

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頭蓋内腫瘍摘出術

ようやく,労働基準法という言葉が頻繁に聞かれるようになった。この業界ではいまだ方法論が根性論に負けている。数年から十数年経てば誰でもできるようなことを,いかに合理的ひいては効率的に学ぶか,そして教えるかということが議論されてこなかった。素人の疑問なのだが,幾多もの人命を預かりつつ,不測の気象条件とか機体の緊急事態にもほぼ対応できるくらい熟練するためには,若いパイロットは果たしてどのような修練を行うのだろう。実地でしか学べないことも多々あろうから,とくに優秀な者ほど,まさか夜間休日返上の泊まり込みで,先輩の操縦を傍らで見て盗むのだろうか。理屈も経験も同等に重要な世界において,よい学び方を知っている,よい学び方を教えられるということは,大変重要なことである。十分な経験量は必須だが,それと同等か,場合によってはそれ以上に重要なのが,経験の積み方だと思う。「そこまでやらんでも」という例は多々あったし,実際のところ「そこまでやらんでも」一定の水準は達成できた。つまるところ,パターン認識である。一見小手先のくだらない概念だが,高いレベルで統合されると,一周回って急速に本質に近づく。実際,控えめに言っても日常業務の6〜7割(少なくとも半分以上)は,既知のパターンのいずれかに落とし込める類のものである。そして,このパターン認識の巧拙によって,達成水準が変わってくる。ただし残りの3~4割は,また別種の技術なり才能なりが要求されるのだろう。だが,それが本当に重大な問題となる局面は意外にも限定的なのだ。これだけ各種デバイスや情報共有技術が発達した今や,がむしゃらな勉強と称して無償で無限に働く方法は,いずれ終焉を迎えるに違いない。

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天草灘

だが一方で,世の中からどう見られているかも忘れてはならない。賞賛も否定もするわけではないが,一般的な話としてパターナリズムの時代は終わった。同時に,あらゆるものが概ね不自由なく手に入るようになった。やがて相互の信頼や感謝は希薄となり,個人の努力だけでは如何とも改善しがたい場面も増えてきた。多少の金を払い,蒸気機関車の煤煙にまみれ,旧客の硬い座席に昼夜揺られ,それでも遠くまで運んでもらえるだけありがたい,そんな時代はとうの昔に終わったのだ。今や,たかが数分の遅延で謝罪の嵐,公共空間での警察沙汰も日常茶飯事である。きれいごとだけでは済まされない,同じような状況になっている。立場は変わって,かりに「今の電気や水道の供給水準の維持には少なくとも2~3倍の料金が必要か,あるいは時間帯によって大幅な利用料制限があり得ます。理由は従業員の不足と労働環境の適正化です」と言われた場合,そこで最初に去来する各々の感情をどう分析し,一定の合意形成へ向けて取り組んでいくべきか。あるインフラストラクチャがいよいよ崩壊するかもしれないというとき,門外漢として何を感じるか,どう動くか,あるいは逆に何を求めるか,というのは,実はそっくりそのまま返ってくることも分かった。唐突な話だが,この文脈の中で,煉獄杏寿郎の走馬灯や没後の神格化に多少なりとも異を唱える者はいないだろうか。もっとも,それよりはるかに壮大な主題がその後次々と提示されていく傑作なのだが,あの作品が現代社会でひろく受け入れられているという事実は十分注目しておくべきである。この第三の諦念は,どうやら根が深そうだ。自分の中での議論もまったく熟していないので,これ以上はやめておく。

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北九州市若松区

ああ,こうして見ると,ずいぶんとすれてしまったなあ。どうしたんだろう。未熟な理解,尊大な姿勢,断定的で高圧的な文体。もっと年を取ってから振り返ったら,あきれ果てるだろうか。いや,でも日記とはそういうものだ。恥こそ記録されるべきだ。ある時点での思考を永久に忘れてしまうことの方が,よっぽど恥ずかしく,何より恐ろしい。かつて『窮極への道』と題した高校卒業文集を読み返してみて,愕然とした。なんと,当時から没頭の重要性を説いていた。もっとも,馬力だけはあったので,没頭だけで何とかなっていたという部分は大きい。大学を卒業するくらいまではそんな感じだった。さて,こうなったら,最後の可能性に賭けてみよう。今さらの納得だが,あくまで目に見える「もの」や「実体」に対する洞察をもとに哲学を構築する,という姿勢から,外科学の世界に足を踏み入れたのはごく自然な流れであった。諸々の環境が整えられ,いよいよ地平が開けつつある今,数々の諦念はともかく,術者として本当に没頭そして表現できるかどうかが問われているのかもしれない。30歳代を生きる中でこの得体の知れない閉塞感が打破されることを願いつつ,取り留めもない随筆をここに締めくくるとしよう。