アドリア海沿岸諸国の旅路(8) ブレンナー峠(2019.10.26)

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昼行特急の食堂車なんて,本邦ではもうお目にかかれない

2019.10.26

Verona Porta Nuova 1102 → München Hbf 1625

EC 80

 

München Hbf → München Flughafen Terminal

S-bahn

 

2019.10.26 → 10.27

Flughafen München(MUC) 2125(GMT+1) → 東京・羽田(HND) 1550(GMT+9)
全日本空輸218便(NH 218

ついに最終日を迎えた.この日のメインはヴェローナ発,ミュンヘン(München)行のユーロシティである.交通の要衝,ブレンナー峠(Brenner pass)を越える国際特急列車が,446kmの道のりを約5時間半で走破する.オーストリア連邦鉄道(ÖBB)の小綺麗な客車列車による運行で,特別に古風な編成というわけではないのだが,本系統には(ありがちなビュッフェではなく)食堂車も連結されている.さらにアルプス周辺の風光明媚といわれる車窓の前情報も相まって,旅行計画の段階から並々ならぬ期待を寄せており,始発から終着までフルに乗車すると当初から決めていた.ミュンヘンからは,前年も利用した全日空の夜行の直行便でヨーロッパを去る段取りである.結局のところ,ミュンヘンから帰るためにユーロシティに乗るのか,ユーロシティに乗るためにミュンヘンから帰るのか,静かに振り返るとだんだん分からなくなってきたが,とにかく,この列車は本旅行において欠くことのできないピースであったことに違いはない.一般的には,ヴェネツィアから空路でミュンヘンなりフランクフルト(Frankfurt)なりのハブ空港を経由して日本に帰国するのが順当なところだろう.だが,それではつまらない.今回の旅は,交通困難地にあたるドゥブロヴニクこそ空路での単発の日帰りを強行したが,それ以外は鉄道でザグレブから延々結ばれてきた旅路である.古来からのアルプス越えの峠道を半日がかりでたどる行程は,まさにその締め括りにふさわしい.

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EC 80列車のたどる道のり.イタリア・オーストリア国境がブレンナー峠である

これまでの旅の疲れもあってか,早起きしてヴェローナの町歩きを行う気力はなく,遅めの起床となった.ゆっくりと朝食をとり,チェックアウト.こういう一日の始まりも悪くはない.発車は11時02分だが,その1時間ほど前にはポルタ・ヌオーヴァ駅のホームに立っていた.正面の1番線には客扱を終了したと思しき近郊列車が停車中で,中線にも別の列車が入っていた.東側の隅にある切り欠きホームには,ローカル線で運用される落書きだらけの気動車がひっそりと休んでいた.ALn 668形という形式で,本邦のキハ52にどこか似通ったデザインで親近感が持てる.異国の鉄道は,基本的に何を撮ってもそれなりに面白い.動力集中方式が当たり前であるのも新鮮で,客車列車というだけで高揚感を覚える.

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早めにチェックアウトし,始発駅でしばしの駅撮りを楽しむ

反対側のホームに行ってみよう.モスクワ発,ニース行の寝台列車が停まっていた.噂には聞いていた不定期列車で,ロシア鉄道の豪華な寝台客車で編成される(案内板上の列車番号はEXP 35110となっていた).長距離国際列車が日夜問わず大陸を駆けまわっていた時代を懐古しながら,富裕層が優雅な列車の旅を楽しむというコンセプトと思われる.ニースという行先もまた,納得という感じだ.距離的な規模感はまるで異なるが,本邦での四季島とか,ななつ星とか,カシオペア紀行とか,そういう類に相当する列車と思われる.ただ,コマーシャルな感じ,チャラチャラした感じはあまりなく,落ち着いた色調の灰色の客車がホームに佇む.発車は10時40分.この後は,ジェノヴァ(Genova),ヴェンティミリア(Ventimiglia)を経由してフランスへ入り,コート・ダジュール(Côte d'Azur)へ向かうのだろう.

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ロシア鉄道の寝台客車
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出発を待つ

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無線交信.制服もサマになっているねえ

ニース行の列車に夢中になっている間に,いつしか,1番線には我々の乗るEC 80列車が入線していた.外国の駅では,恐ろしい勢いで時間が過ぎ去ってゆくものだ.さて,ホームには4年前の卒業旅行でも前年のオーストリア旅行でも見慣れた,すっきりしたデザインのÖBBの客車が横たわっていた.日本のE231系などと同世代の車両だが,叩いたらすぐ潰れてしまいそうな華奢な感じはまったくなく,それなりの重厚感がある.1等車の指定席を取っておいたので,さっそく乗り込んだ.オープンサロンタイプの車内で,2列の固定座席(一部は向かい合わせ)と1+1の向かい合わせ座席が通路の両側にそれぞれゆとりをもって配置されている.旅行の準備段階では1+1の方はすでに満席だったのだが,見たところ予約票は入っていなかったので,車掌に言ってその場で変更してもらった.景色が良いとされる進行方向の左側にあたり,ちょうど良かった.座席の方向や向かい合わせのパターンが固定されるのはいささか難儀である.この点に関しては,日本式の回転クロスシートは本当に素晴らしい.もっとも,大陸の鉄道は(おそらくは馬車の系譜と思われる)コンパートメントが永らく主流で,昨今は個人主義の高まりからオープンサロンが台頭してきているという背景があり,進行方向に座るか否かはさして重要な問題ではないのかもしれない.やがて,船が滑り出すように音もなく列車が動き出した.モーターやインバーターの音が響き渡るでもなく,ディーゼルエンジンの唸りが床下から湧いてくるでもなく,ただ無音で動き出すこの感じ.窓外に目をやれば,さっきまで立っていたホームの景色がいつの間にかすーっと動き出している.ああ,これぞ客車列車だ.

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ミュンヘンまではおよそ5時間半の長旅
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オープンサロンタイプの1等車.両側に車窓が展開する

この列車の停車駅を書き下す:

Verona Porta Nuova 1102,Rovereto 1141-43,Trento 1157-59,Bolzano/Bozen 1231- 1234,Bressanone/Brixen 1302-03,Fortezza/Franzensfeste 1313-15,Brennero/Brenner 1348-1400,Innsbruck Hbf 1436-40,Jenbach 1459-1501,Wörgl Hbf 1514-16,Kufstein 1524-26,Rosenheim 1545-47,München Ost 1615-17,München Hbf 1625

ヴェローナを発った列車は,アディジェ川を遡上するように北へ進路をとり,一面のブドウ畑の中を駆け抜けてゆく.ほどなくして,ヴェネト(Veneto)州からトレンティーノ=アルト・アディジェ(Trentino-Alto Adige)州に入り,その最初の駅,ロヴェレト(Rovereto)に停車する.川の両側にはドロミーティ(Dolomiti)の山塊が迫り,色々な表情を見せるごつごつした岩山と,抜けるような青空とのコントラストがたいへん美しい.実は隣にコンパートメントタイプの1等車も連結されているのだが,両側に景色が展開するオープンサロン車両を選んで本当に正解であった.指定席の予約にあたっては,イギリスのヲタが運営している下記サイトを参考にさせて頂いた(世界的に有名な乗り鉄ガチ勢と見える.英語は平易で読みやすい)。

www.seat61.com

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アディジェ川に沿い,山岳地帯へと分け行る

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ブドウ畑を横目に,列車は北へ快走

州都トレント(Trento)を出ると,もう昼時だ.隣の食堂車へ足を運ぶ.意外にもまだガラガラで,我々が最初の客のようだった.内装こそ小綺麗で近代的ではあるが,昔からのスタイルを踏襲する優等列車の食堂車といった風情で,両側の大きな車窓には悠然たる渓谷美が映し出される.何という幸福だろう.昼行特急の食堂車なんて,本邦ではもうお目にかかれない.さっそく席について,色々と注文した.

かつてはわが国でも多くの列車に食堂車が連結されていたが,あっという間に姿を消していった.平成初期生まれ世代の自分はというと,北斗星の「グランシャリオ」を2,3回利用したことがあるのみだ(今や,サンライズエクスプレスだけを残して寝台列車自体がほぼなくなってしまった).それどころか,あらゆる列車において車内販売すら縮小,廃止される方向にある.モノへのアクセスが格段に向上した現代にあっては,わざわざ列車内で供食サービスを維持するのは非効率と結論づけられたのだろう.それに,航空業界との棲み分けが進み長距離列車が敬遠される傍ら,列車本数は大量に増発される時代なので,その点からも各列車に食堂車をつなげたり車内販売を回したりするのはおよそ現実的ではなくなったようだ.陸路と空路のシェアは東京~広島がだいたい半々と記憶している.4時間をこえてくると鉄道は一気にキツくなるらしい.そういう現状を反映し,ビジネスライクに効率を追求する輸送体系と,(ニース行の寝台列車ではないが)富裕層をターゲットに高級な娯楽の提供に徹する路線とで,完全に二極化していると見える.でも何だか,味気ないというか,つまらない話である.

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鉄道移動ならではの贅沢な時間.料理も美味い

写真にあるUmathusというワイン,その産地はハンガリーに近いフラウエンキルヒェン(Frauenkirchen)というオーストリアの町であった.当時はワインの大した知識もなく適当に注文していたのだが,ÖBBが運営する食堂車なので沿線のイタリア料理がふんだんに出てくるわけではないのだ(北イタリアと内陸諸国を結ぶ国際列車の運行は,ÖBBがその多くを担っている).そこはご愛嬌.さて,列車が北上するトレンティーノ=アルト・アディジェ州は二つの自治県を擁しており,南はトレント,北はボルツァーノ(Bolzano)という.そして北へ進むにつれ,どうも様子が変わってきた.まず,各駅の駅名標にはイタリア語とドイツ語が併記されるようになっている.県都ボルツァーノ(ドイツ語名ではボーツェン・Bozen)を過ぎると乗客が一気に増え,食堂車もにわかに混雑してきた.まだイタリア国内のはずだが,車内に聞こえてくるのはドイツ語ばかり.人々の顔つきも少し異なるように見える.顔つきといえば,車窓を過ぎ去る小さな町や教会などもどこかイタリア離れした表情を見せるようになった.

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県都ボルツァーノを発車

それもそのはず,ここは南チロル(Südtirol)の中心部にあたり,文化的にはオーストリア=ハンガリー帝国の影響が色濃く残る.真面目に勉強すると大変なのだが,かなり複雑な歴史的背景があり,南チロルは第一次大戦後に未回収のイタリア(Italia irredenta)として「回収」された地域の一つである(先日訪れたトリエステもその一つ).これはオーストリア=ハンガリー帝国領のイタリア人居住地を奪回するナショナリズムの一環であったのだが,南部のトレントはともかく,北部のボルツァーノではドイツ語を話すドイツ系住民がもともと大半を占めていたことから,強い不満と反発があった.しかしムッソリーニヒトラーとの間で協定が交わされた結果(South tyrol option agreement;Opzioni in Alto Adige;Option in Südtirol),彼らは母語を捨ててイタリアに同化するか,故郷を捨ててドイツ領内に移住するかの選択を迫られたという(コミュニティ内には大きな亀裂も生じたらしい).第二次大戦後もさまざまな事情から国境線が変更されることはなかったが,イタリア政府がこの地域一帯に大幅な自治権を認めることで事態の一応の沈静化が図られ,現在にいたる.ボルツァーノ自治県にはイタリア語,ドイツ語,そして地域少数言語のラディン語の三つの話者グループが存在し,いずれの言語も公用語として掲げられるが,大多数を占めるのはやはりドイツ語グループである.公教育の現場はというと,どうやら複雑な様相を呈しているようで,その実情はラディン語の立場から書かれた以下の邦語論文に詳しい:

南チロルのドロミテ・ラディン語の母語継承 —イタリア語とドイツ語の狭間で―

だんだんと渓谷が深くなり,トンネルも多くなってきた.食堂車の車内で話し込む乗客たちの表情が,窓に映りこむ.イタリア語の陽気な語感に比べると,ドイツ語の響きはどこか真面目で硬質な印象だ.駅名の二か国語併記は維持されたまま,列車はブレッサノーネ/ブリクセン(Bressanone/Brixen),フォルテッツァ/フランツェンスフェステ(Fortezza/Franzensfeste)と歩みを進める.果たしてイタリアの中にドイツ語圏があるのか,ドイツ語圏がイタリアになってしまったのか.領土係争に関わる敏感な問題である.そもそも,この地域を南チロルと呼ぶのか,アルト・アディジェ(アディジェ川上流)と呼ぶのかでさえ,立場が大きく変わる.しかし,こうして旅をした生の感覚からすると,この辺りはもはやイタリアという感じがしない.そういえば,オーストリアの鉄道駅前には南チロル広場(Südtirolerplatz)という広場をしばしば見かけたことを思い出したが,その意味がようやく分かった.この地を忘れまいとする彼らの意志の表出なのであった.南チロル問題はかなり根が深い.その火種は現代でも消えたわけではなく,いつ再燃してもおかしくはなかろう.一帯には,陸続きの列車移動だからこそ見えてくる独特の表情がある.そうは言っても,我々日本人が状況を正確に理解するのは困難を極める.同一地域に三つの言語が混在し,色々なアイデンティティの住民らが寄り集まって,表向きはイタリア領とはいえ幅広い自治が認められているという状況自体が,あまりに難しすぎて,ピンとくるものではない.今や必ずしも偶然の注文とはいえないオーストリア産のワインを飲みながら,列車に揺られて峠道を登る.沿線のブドウ畑も,澄み渡った青空も,どこか悲壮な感じがしてくるものだ.

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国境駅,ブレンナー(ブレンネロ)に到着

やがて,列車はブレンナー(Brenner)に到着.イタリア語名ではブレンネロ(Brennero)という.標高1370mの峠は古くからの交通の要衝で,アルプスを越えてイタリアとドイツを結ぶ重要な交通路の上にある.12分の停車時間があるので,ホームに降りて気分転換.白昼の日差しに照らされた駅構内を散策しつつ,数枚のスナップを収めた.少し肌寒いが,空気は美味しい.

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小休止

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広い構内.空は晴れ渡っている

ミュンヘンまでの行程もちょうど折り返しである.ブレンナーから先はオーストリア領となり,チロルの州都インスブルック(Innsbruck)を目指して,列車は曲がりくねった長い峠道を下ってゆく.駅名標もすっきりしたフォントのÖBB仕様のものに変わっており,いよいよ異国に入ったことを実感した.ヴェローナトレントのアディジェ川沿いに広がっていたブドウ畑はいつの間にか見られなくなり,そのかわりに深い山あいに現れた牧歌的な村々の表情はまさに,前年のオーストリア旅行で訪れたイェンバッハ(Jenbach)やアッヘン湖(Achensee)周辺の景色と似通っている.沿線の地域性がグラデーションをもって実感されるのは興味深い.

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列車は長い峠道を徐行しながら下ってゆく
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チロルの州都インスブルックに停車

列車は定刻で走っているようだ.一般に,海外の鉄道はいい加減という言説をたびたび耳にするが,今のところ大きな被害は食らっていない.これまでの旅でも感じたことだが,オーストリアやドイツの鉄道はとりわけ精緻でしっかりしている印象がある.インスブルックから先は,昼下がりのオーストリア国内を東へ走り,前年も下車したイェンバッハにも停車する.現役最古のラックレールの登山鉄道,アッヘンゼー鉄道(Achenseebahn)の小さな蒸気機関車と束の間の邂逅を果たし,彼らを横目で見送った.いつまで元気で走ってくれるだろうか.開けた景色の中,さすがは標準軌といった感じの安定した高速走行が続く.15時を回りドイツ国境を越える頃になると日は西に傾き始め,窓外にはバイエルンの草原が柔らかな斜光線に照らし出されているのであった.

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景色はずいぶんと開けてきた.ドイツ国内に入り,やがて夕刻を迎える

ローゼンハイム(Rosenheim)を出ると,いきなり車内に警察官が巡回してきた.ただの見回りかな,と思っていると,我々のところで立ち止まり,パスポートを見せろと言う.シェンゲン協定圏への最初の入国印は,リュブリャナへ向かう列車内,スロヴェニアのドボヴァにて捺されたものだが,その前にはクロアチアの印がある.それを見たのか,「クロアチアへ行ったのか」と訊かれる(英語のCroatiaは[krəʊéɪʃə]と発音されるので,変換のため一瞬だけ固まった).確かにそうだと伝えると,以降は特別の質問なくパスポートを返却された.現地人と思しき他の乗客のところでは尋問など行っていなかったから,何だか差別的だなあとは思ったが,まあ旧共産圏から延々陸路でドイツまでやって来た東洋人など,彼らの目にはいかにも怪しく映るのだろう.ちょうどドイツ国内の鉄道駅で小規模なテロが多発していた時期とも重なっていたと記憶しているから,無理はないのかもしれない.それにしても,我々なんてどう見てもテロリストらしくないと思うんだがね.南チロルを走破したこの列車自体の旅もさることながら,全体をとおして「陸続きの何たるか」を色々な場面で実感する旅行であった.1年半もの月日を経てようやくこの記事をしたためている2021年はコロナ禍の真っ只中にあり,次に海外を訪れるのはいつになろうかというところだが,洋の東西を問わず鉄道旅行というものはひとつ普遍的なテーマとして追究していきたいものだ.EC 80列車は定刻で終着のミュンヘン中央駅に滑り込んだ.およそ5時間半の長旅にピリオドが打たれるとともに,ザグレブからはるばる続いてきた新婚旅行の旅路もここに終結した.

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終着駅

ここから先は前年と同じく,S-bahnで空港へ向かう.羽田行の夜行便に無事搭乗し,ヨーロッパ大陸を後にした.

 

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