アドリア海沿岸諸国の旅路(5) トリエステ周辺とヴェネツィア(2019.10.23)
2019.10.23
Piran 1015 → Koper 1046
バス(Arriva)
Koper 1115 → Trieste 1153
バス(Arriva)
Trieste Centrale 1215 → Venezia Santa Lucia 1420
R 2212
ヴェネツィア(Venezia)観光
運河,ドゥカーレ(Ducale)宮殿など
Hotel Metropole
港町ピランでは,すがすがしい朝を迎えた.小綺麗なホールで美味しい朝食をとる.どうやら空は晴れているようだ.ゆうべは実に劇的な日没を見届けたばかりだが,この時間帯,この空模様だと,またあの城壁に登れば今度は順光で町全体を見下ろせるのではないか.ふと考えが浮かんだのだった.そして撮りたいと思った画は,手間を惜しまないで撮るものだ.
予想は的中した.2日連続で城壁を訪れる変な観光客などあまりいないと思われるが,朝食をとったばかりだというのに急坂を登ってきた甲斐があった(妻も同行した.ハードな新婚旅行である).到着直後は黄味がかった柔和な光が支配的であったのが,徐々に昼間らしい白い光線へと変わっていったのも,期待に満ちた一日の幕開けにふさわしい光景であった.アドリア海の片隅に息づくこの小さな港町が見せる美しさについては,あらためて記述するまでもなかろう.
いわゆる「朝練」を終えて宿に戻り,荷造りを済ませる.名残惜しいが,そろそろ町を去らねばならない.今日の目的地はヴェネツィア.あと1週間だか2週間だか早い時期ならアドリア海を渡るフェリーもあり,海上から水の都に入るという何とも洒落た旅路が実現したのだが,残念ながら今はシーズンオフに入っている.ここは地道に陸路で移動しよう.まずはコペルまで出てから(往路とは異なりリュブリャナへ向かう長距離路線であった),そこで路線バスを乗り継いでイタリア国境を越え,トリエステ(Trieste)を目指す.そしてヴェネツィアへ鉄道で直通しようという算段である.
参考までにGoogle mapの加工図を示す.トリエステまでは,スロヴェニアの非常に短い海岸線の大半をなぞるような合計約50kmの道のりである.地理的には国境線がなかなか込み入っていることが分かるが,これまた複雑な歴史的経緯が絡んでいる.真面目に調べると結構大変なので詳細は省くが,バスを乗り継いだコペルや,ゆうべ滞在したピランも含め,トリエステ周囲の一帯は第二次大戦後にトリエステ自由地域として北のZone A(連合国側)と南のZone B(ユーゴスラヴィア側)に分割された歴史があり,今から通過しようとしている現在のイタリア・スロヴェニア国境は,まさにAとBの境界に相当する.Zone Bはというと,後年になってスロヴェニアとクロアチアの独立に伴いちょうどピラン湾のところでさらに境界線が引かれ,それが現在の両国間の国境となっている.古くはヴェネツィア共和国,その後はオーストリア=ハンガリー帝国であったり,イタリア王国であったり,ユーゴスラヴィアであったり,スロヴェニアであったり,とにかく素人には何だかよく分からない,難しい地域なのである. 今となってはスロヴェニアはシェンゲン協定圏内であり,かつてのZone BからAに向かって,普通の路線バスがイタリア国内に難なく乗り入れる.国境とは不思議なものである.
事前調査通りの行程でトリエステまでたどり着き,一安心.大荷物であったがどちらの運転士も快く積み込んでくれて,とくに不便はなかった.貿易港としても冷戦の象徴としても有名なトリエステは半日くらいは観光しても良い街なのだが,残念ながら今日は時間がない.オーストリア=ハンガリー帝国の影響を受けたあまりイタリアらしからぬ街並みとか,鉄のカーテン演説での言及とか,きっと歴史マニアにとっては面白いかもしれない.
店に入って昼食をとる時間はなく,駅構内のスパー(SPAR,ヨーロッパ最大手の食品小売チェーン)で惣菜を買い,列車内で食べることにした.ナスとチーズのサンドイッチはまずまずだったのだが,パックで売っていたホウレンソウは味がついているのかと思いきや単に茹でただけの代物であった.醤油が欲しかったなあ.ヴェネツィア行の列車は日本で言うところの快速に相当するのだが,結構なスピードで幹線を駆け抜けてゆく.標準軌ならではの安定した走りといった感じだ.
やがて本土側のヴェネツィア・メストレ(Venezia Mestre)駅を出た列車は,海を渡って本島へ入る.4年前の卒業旅行で目にしたのと同じ光景だ.ピランを発って4時間あまり,およそ200kmの道のりを無事に移動し,ヴェネツィアに到着である.駅を出ると,目の前の大運河には船が行き交っている.この地は,ぜひまた来たいと思っていた.逆説的なのだが,懐かしくも新しい感動とでも言えば良いのか,再訪の歓喜は少しばかり不思議な感覚であった.
せっかくの旅である.今回は奮発して,サン・マルコ広場近くの高級老舗といわれるMetropoleに二晩投宿することにした.駅からの移動方法は色々考えた結果,それなりに値が張るものの水上タクシーが最も便利であった.当然貸切なのでちょっとした豪華気分も味わえる.というかそもそも,荷物運び屋を利用しつつ自分たちは駅から延々歩いて向かうとか,乗合のヴァポレットから降りてスーツケースをごろごろ転がしながら玄関で"Buon giorno"とか,そういう宿ではなかった.何でも,水上タクシーの専用船着場が建物の脇にあって,下船した宿泊客は,チップをさっと渡してポーターに荷物を運ばせつつ,正面のレセプション・デスクへ颯爽と歩いてゆくのがいかにも当然かのようであった(なお,チップは渡し損ねた.この所作は日本人には難易度が高い).かなり歴史のある宿と見え,建物は古いながらも内部は綺麗に改装されている.通された客室は運河に面しており,申し分ない上質さである.茹でただけのホウレンソウを快速列車の中でむしゃむしゃ食べていた昼時とは,えらいギャップを感じる.
今晩と明晩の夕食のためにそれぞれ目をつけておいた店があったので,フロントで依頼したところ幸い予約を取ることができた.安心して観光に出かけよう.そうはいってもすでに夕刻の時分.町を歩き回るのは翌日に回して,今日はサン・マルコ寺院と,ドゥカーレ宮殿を見学することにした.
この寺院は,ビザンティン建築と,コンスタンティノープルからかっぱらってきた馬で(おそらく)有名なのだが,「ふーん」と漫然と回るのみで終わってしまった.金と硝子で作られたパラ・ドーロ(Para d'Oro)なる凄まじい衝立が祭壇の裏にあったことはよく覚えている.宮殿の方は前回は訪れる時間がなく,未踏なのであった.ここはかつてのヴェネツィア共和国の中枢部.圧倒的な豪華絢爛建築に足を踏み入れば富と権力をこれでもかというくらい見せつけられ,海洋国家として君臨した往時の栄華が偲ばれるというものである.しかし当地の観光は,十字軍によるコンスタンティノープル陥落とか(まあヒドイ話である),オスマン帝国の台頭とか,その辺りの絶妙な中世ヨーロッパ史が把握できていればさらに楽しくなるのだろう.ただ,残念ながらそこまでの歴史的素養がない.異国情緒に溢れる景色に魅せられてこれをひたすら撮るのも良いのだけれども,最近は果たして文脈を本当に理解した旅をしているのかと自問する機会も増えてきたように思う.ただ,たとえそこまでの予習は難しくても,後からの復習でも得られる発見は多々あることに気が付いてきた.
まあそんな難しいことは考えないで,珍しい異邦の景色を満喫し,美味いものでも食べようじゃないか.予約していたOsteria da Albertoという店へ向かう.広場からは北へ向かって20分ほど歩いた.店内は肩ひじを張らない雰囲気で,ちょっとした居酒屋風.詳細は覚えていないがタコやイカスミをはじめとした当地名産の海産物を何点か注文し,いつの間にかアマローネが一本空いてしまった.ああ至福だなあ.
宿まではいちおう一緒に歩いて帰ったのだが,ほとんど記憶がない(後で妻にかなり怒られた).部屋に着くや否や,泥のように眠りこけてしまった.