はやぶさの一夜 前篇(2008.09.14)

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夜の帳が下り,無数の光が走り去る

・旅立ち
夕刻の東京駅は賑わっている.毎度のことながら夜行列車での旅立ちとは不思議なもので,普段目にする都会の雑踏とか通勤客で混み合った電車とか,そういったものが独特の趣をもって迫って来る.今宵乗り込むは熊本行の寝台列車である.10番線には,同じく富士・はやぶさの乗客であろう人々が既に待っており,三連休の中日ということもあってか寂しさは感じられない.程なくして,有楽町方からEF66に率いられて列車が入線した.ホームに滑り込み,緩やかな減速とともに静かに横たわる深い青の車体を目の当たりにすると,ステンレス製車両に見慣れて乾き切ってしまった目が,久々に潤されるかのような感覚である.編成は扉が閉まったまましばらくホームに停車し,その間に隣の9番線をEF66が通過して有楽町方に引き上げ,先頭に連結されるという段取りになっている.開扉は発車18分前の17時45分になってからであった.昨年暮れに乗車した銀河号とは違い,発車までの時間は予想外に短い.側面や最後尾など,一通りの撮影は済ませたもののかなり慌ただしくなってしまった.

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旅立ちの東京駅

 ・長き旅路の始まり
乗り込んだのが発車直前であったため,最後尾の富士12号車の上段寝台で車内放送を録音する運びとなった.ハイケンスのセレナーデは客車に乗っていることを改めて実感させてくれる.ひと言ずつ,老練な放送が流れてゆく.しかし停車駅の案内が九州島内に入ったところで,残念ながら検札が入ってしまった.そのため雑音の無しの完璧な録音はならなかったのだが,これも旅の想い出と思えば別段悪くはなかろう.放送が終わり,車窓を眺めると既に日はとっぷりと暮れていた.あと10日ほどで秋分を迎えるのだから当然なのだが,ずいぶんと日が短くなった感がある.せっかくなので最後尾の貫通路から景色を眺め,後方へ流れゆく光跡をカメラに収めてみた.列車は既に多摩川を渡ったようで,まもなく横浜に到着するらしい.日没と共に,次第に列車は都会から離れてゆく.今や新幹線では到底味わえない,在来線長距離列車ならではの独特の風情だ.

自席のB寝台下段に戻る.今日の5号車はオハネ15 2.最近小倉に入場した車両らしく,車内はリニューアルされていた.テーブルの栓抜きが無くなっていたり,床が絨毯でなかったりするのはやや残念ではあるものの,寝台周辺の雰囲気は従来のリニューアルに比べるとなかなか秀逸なのではないかという所感である.モケットは落ち着いた黄土色,化粧板は木目調のものに交換されていて,ささやかな高級感が演出されている.一方,隣の4号車はオハネ15 1,すなわちトップナンバーである.こちらは旧式のリニューアルが維持されていて,これはこれでまた独特の侘しさを醸し出している.ただ,およそ30年前に製造されたこれらの寝台客車に耐用の限界が近づいてきていることは確かであろう.横浜を発った列車は,西へ向かって走り続けている.

 

 ・夜の東海道をひた走る
首都圏はますます遠ざかる.途中駅の喧噪も,車内から眺めてみれば全くの別世界.いや,車内の方が全くの別世界といった方が正しいのかもしれない.いよいよ相模湾が近づいてきたようなので,通路の簡易椅子に腰かける.今宵は仲秋の名月.さほど高くない位置に昇った満月が,車窓に浮かんでいる.19時20分頃,根府川の鉄橋を通過した.あっという間ではあったが,並走する国道の車列,そして夜空に浮かんだ満月が旅情をそそる.東京を出ておよそ1時間半,夜はまだ長い.車窓を眺めながらこうして日没後の所在無い時間を過ごすとは,この上ない贅沢,そして寝台列車ならではの楽しみだ.そして,明日には遥か彼方の地を走っているのだと思うと,不思議な心持ちである.熱海を出ると列車はすぐに丹那トンネルに入り,その後は沼津,富士,静岡と主要駅に停車していく.自分はというと五感を研ぎ澄まし,時折吹鳴される汽笛の寂しげな響きに耳を傾けて,流れゆく車窓に目をやる.満月を呆然と眺めながら,規則正しい静かな客車のジョイント音,そして振動に揺られて,ただこのひと時を過ごすばかりである.

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夜は更けてゆく.そしてこんな洗面台,今やお目にかかれない

 東京駅で用意しておいた弁当を頬張る.町が近づいたと思ったら,やがて遠ざかっていく.そしてまた次の町がやって来る.車窓はこれの繰り返しだ.21時頃にいわゆる「おやすみ放送」が流れた.ひと通りの停車駅案内の後,夜間帯の注意などを述べて終了.どうやら,今晩は大阪までの乗客がいるようだ.新幹線が断然便利であろうに,わざわざこの列車を利用するとはそれなりの理由でもあるのだろうか.やがて車内は減光された.ささやかな酒宴が開かれていた区画なども含め,おおかたの乗客は眠る体勢に入ってきたようだ.浜松,豊橋,名古屋と列車は足を進めてゆく.車内探検に出かけてみると,客室は良く冷房が効いているが,デッキは少し暑苦しい.ここから眺める外の景色も一風変わっていて独特である.

 

・皓々たる月夜
満月が美しい.夜も更けゆき,いよいよ空高くまで昇った月は,あたり一帯,そしてこの列車を見下ろしている.23時を回った岐阜を発車すると,大垣を経て関ヶ原を越えることになる.ということは,もう上りのながらとはすれ違ったのだろうか.以前に同列車に乗った時は,穂積に着くまでの間に下り富士・はやぶさと離合したものと記憶している.さて,名古屋や岐阜では賑やかだった街の電飾は,もう見られなくなった.列車は山間部へと入って来ているようで,家々もまばらに点在するのみである.その屋根瓦が,月光に煌めいている.月明かりに照らし出された里の風景を車窓に映しながら,列車は月夜を邁進する.薄暗い寝台車の通路から眺める月夜の車窓は格別.ちょうどムーンライト・ソナタに聞き入っていたものであるから,感激のあまり涙が出そうになった.眠りに落ちたのは近江長岡を過ぎた頃であった.